犬のしつけで苦戦しているすべての人へ
吉備津神社
- 2014/02/10 (Mon) |
- 未選択 |
- CM(0) |
- Edit |
- ▲Top
吉備津神社は吉備津彦命が温羅と対峙するための本陣を置いた所とされるが、吉備津彦神社は吉備津彦の住居があった場所とされている。
岡山市の西部にあり、備前国と備中国の境に立つ吉備の中山の北東麓に東面して鎮座する。吉備の中山は古来より神体山として信仰されており、北西麓に備中国一宮・吉備津神社が鎮座している。吉備の中山には多くの古墳や古代祭祀遺跡が残っており、古くから神体山の信仰がなされていたと考えられる。太陽、月、盤座、巨木が信仰対象になっている。吉備津神社同様、大吉備津彦命を主祭神に祀り、命の関係一族を配祀している。
大化改新を経て吉備国が備前・備中・備後に分割されたのちに備前国一宮として崇敬され、中世以後は、宇喜多氏、小早川秀秋、池田氏など歴代領主の崇敬を受けた。
戦国時代に、日蓮宗を信奉する金川城主・松田元成による焼き討ちに遭い社殿を焼失した。松田氏滅亡後、宇喜多直家が崇敬し、高松城水攻めの際には羽柴秀吉も武運を祈願したと伝えられている。
藩政時代に岡山城主の池田利隆が本社を造営した。利隆は光政の誕生を期に子安神社を造築した。その後、岡山藩主池田忠雄により本社・拝殿が造営された。池田綱政が社領300石を寄進したほか本殿を造営し、本殿・渡殿・釣殿・祭文殿・拝殿と連なった社殿が完成した。元禄10年(1697)に完成したと社伝にある。
近代社格制度においては県社に列し、昭和3年(1928)に国幣小社に昇格した。
昭和5年(1930)12月、失火により本殿と随神門以外の社殿・回廊を焼失した。現在の社殿は昭和11年(1936)に飛鳥時代の社殿建築の粋を集めて再建されたもので、将来の国宝と言われている。
元禄10年(1697年)池田綱政公が造営した髄神門。
高さ11.5m、笠石8畳の日本一大きな石燈籠だ。文政13年(1830)から安政4年(1857)の27年にも渡り寄付がよせられ、安政6年(1859)に天下泰平を祈願して建立された。6段づくりの石段には1670余名の奉納者名が刻まれている。
拝殿まで進む。
本殿は寛文8年(1668)岡山藩主、池田光政公が造営に着手しその子、綱政公の元禄10年(1697)に完成した。三間社流作りの神殿は飛鳥時代社殿建築の粋がつくされており荘厳華麗にして吉備国の神社建築が伝統とする“流れ造り”の正統な姿を示す社殿としても貴重な建築物とされている。古代の熱田神宮の社殿配置にならい、本殿、渡殿、祭文殿、拝殿と大社殿が一直線に配置されている。
社殿は、夏至の日に正面鳥居から日が差し込んで祭文殿の鏡に当たる造りになっていることから「朝日の宮」と呼ばれている。夏至の日に来てみようかな。
摂末社は26社を数える。亀島神社に古代祭祀遺跡とされる環状列石が残っている。
吉備津彦は桃太郎であるとされている。吉備津神社が鬼(温羅)と闘った場所とされている。この地は住居跡なので、おじいさんとおばあさんが桃を見つけた伝承は吉備津彦神社に残っている。鳥居前の小川が桃が流れてきた川だ。
今度、来るときには桃を持って来よう。京都丸善に檸檬を置くように、この川に桃を流して、新たな文化を作りたい。
.
吉備津神社~岡山市北区吉備津
2013-10-12 08:38:33
テーマ:ブログ
久しぶりに吉備津神社を訪ねた。祭神は第7代孝霊天皇の皇子の「大吉備津彦命」だ。吉備津彦命は四道将軍(よつのみちのいくさのきみ)の一人だ。当時、吉備の国は出雲より飛来した温羅(うら)が力により支配し、悪政を布いていた。都まで上り、窮状を訴えた吉備の人の願いを聞き、第10代崇神天皇は吉備津彦命を派遣した。吉備津彦命は今の吉備津神社に本陣を構え、温羅と対峙した。
吉備津彦命は温羅に対して矢を1本ずつ射たが岩に呑み込まれた。そこで命は2本同時に射て温羅の左眼を射抜いた。温羅が雉に化けて逃げたので命は鷹に化けて追った。更に温羅は鯉に身を変えて逃げたので吉備津彦は鵜に変化してついに温羅を捕らえた。
討たれた温羅の首は討たれてなお生気があり、時折目を見開いてはうなり声を上げた。気味悪く思った人々は吉備津彦に相談し、吉備津彦は犬に首を食わせて骨とするが、うなり声静まらず、釜の底へ骨を埋めても地中より温羅のうなり声は響き続けた。ある夜、吉備津彦の夢の中に温羅が現れ、『自らの妻阿曽媛を巫女として釜を用いる神事を行うならば静まり、自ら吉凶を告げよう』と告げた。お告げ通り、神事を執り行ったところうなり声は鎮まり、吉凶を占う存在となった。吉備津彦命はその後もこの地に留まり、吉備国の人々に殖産を教え、仁政を行った。
温羅は出雲から、製鉄技術を伝え、この国を治めた豪族なのだろう。古代出雲王国とつながり、ヤマト王権に対抗する勢力を有していたため、ヤマトにより滅ぼされたということをこの伝承は伝えているのだろう。
吉備津彦命の家来の犬飼健を犬、楽々森彦を猿、留玉臣を雉とし、温羅を鬼として、お伽話「桃太郎」が生まれたとされている。犬飼健は犬養氏の始祖であり、犬養毅首相の祖先であると言われている。
吉備津神社は仁徳天皇が行幸したときに創建されたと伝えられている。当初は三備(備前、備中、備後)の一の宮であったが、三国分割により、備中一の宮となった。分霊が備前、備後の一の宮に祀られている。産業の守り神、長寿の守り神として信仰されている。式内社(名神大社)であり、旧社格は官幣中社で、現在は神社本庁の別表神社とされ、特別な権限が与えられている。
足利義満造営とされる比翼入母屋造の本殿は、「吉備津造」と言われ、拝殿とともに国宝指定されている。
回廊は天正7年(1579)再建され、全長360mにもおよび自然の地形そのままに一直線に建てられている。岡山県指定重要文化財だ。
北随神門には犬飼健命、楽々森彦命、留玉臣命が祀られている。
南端の本宮社は吉備津彦命の父母神が祀られており、安産・育児の神様として信仰されている。
おっぱい絵馬が奉納されている。
回廊の途中に神馬殿がある。
南門からも本殿への回廊が続く。
お釜殿では鳴釜神事が行われる。
摂末社は三社宮 (春日宮、大神宮、八幡宮)岩山宮 、滝祭神社、えびす社、祖霊社、一童社
宇賀神社 (神池の島に鎮座)が祀られている。
吉備津神社を訪ねてみると、古代吉備王国の壮大さがわかる。吉備津彦はその後、この地を長く支配した吉備氏の祖だ。ヤマトがおそらく渡来人である温羅一族を排除した歴史に今の大陸と日本の関係を思うのだ。排除もしくは同化の歴史を共有の歴史に転化していくことができなかった日本が残念でならない。
.
忘れ去られた神社『大神社』~広島市東区二葉の里
2013-10-08 23:09:17
テーマ:ブログ
広島市の歴史は二葉山から始まった。『二葉の里歴史の散歩道』整備、広報活動の予算を計上していることを僕は英断として評価する。1945.8.6以前に行政が目を向ける意思表示をしているとして評価する。
ただ、この散歩道に欠かせない神社が欠如していることを僕は指摘したい。広島県神社庁が神社誌に掲載している重要な神社はこの散歩道のコースには入っていない。
大神社は東照宮に隣接した神社で、二葉山で一番古い神社なのだ。この神社抜きに輝元の広島城下建設もあり得なかった。地主神社なのだ。
元は黒髪山地主大明神と号した。二葉山の名前は元々は尾長山といったがその前は黒髪山と言った。この由来は興味深い。二葉山の下まで往時は海だった。その海に黒い大蛇が出没していた。その大蛇は頭は海中にあり、尾は山にとぐろを巻いていた。尾長の地名はそこから来ている。この大蛇は海上で難破している船の船員を救助した。人々はこの大蛇を黒神として祀り、神殿を建立した。黒神が現れるとき、あたりは霞に覆われた。この山の別名を霞山ということもある。
平清盛が音戸の瀬戸を開くときに黒神の霊験がり、久寿年間(1154~56)に神殿を再建し、黒神を地主尾長大神と号し、神田も献上したと記録にある。承久年間(1119~22)には安芸守護武田信光が本殿を再建し、文和年間(1352~6)に武田氏は峯姫神社の天照大御神と宇迦之御魂神を合祀し、天神宮と併せ、銀山城の守護神として、家臣串家に祀らせた。
武田氏の滅亡後、毛利元就は大神社、天神宮の神主を渡辺家に命じ、天正年間(1573~92)には毛利輝元は社領を寄進している。慶安元年(1648)浅野光晟が東照宮を造営した際には相殿とされたが明治2年には分社し、東照宮の西に境内地が設けられた。
由緒も明確な歴史のある神社だ。
にもかかわらず、その現状は
参道入り口にはチェーンが張ってある。
急坂を進むと標柱、手水が見えてくる。雑草に覆われている。参拝客が訪れていないことがうかがえる。
灯籠、一間造りの本殿が見える。原爆で社殿等すべてを焼失したのだが、本殿だけは再興されたのだろう。本殿前に雑草に覆われた石畳の参道が確認できる。
大神社は先述したように、尾長天満宮の渡辺家が管理しているはずだ。明確な由緒が残り、昭和の終わりには再建計画もあった。何故、荒れ果てたままにしているのだろうか。今度、機会があったら、渡辺さんに聞いてみよう。
広島市もこの由緒ある神社に光を当てるべきだ。
参道を歩くときに気になった場所があった。建物の後だ。被爆時に第二総軍司令官は畑元帥だった。官邸は東照宮の西隣にあった元英国大使 松木勝太郎の別荘だった。広島の第一報は畑の命令で無傷であった馬木の送信所から中央に送られた。
、被爆時の第二総軍の官邸は歴史遺産だと思うのだが、広島市は第五師団、第二総軍の史跡を史跡と認めたくはないようだ。
閑話休題、大神社の再建に関しては、周りの人から興味深い話しも聞いた。この場所で自殺をした人がいたそうで、それ以来、人が近づかないようだ。だけど、お祓いをして、供養して、神社の再建を実現できれば死者も浮かばれる。
大神社の再建を祈っている。神社の祭礼日は10月9日だ。渡辺宮司は明日、お参りをするのだろうか?
.
13-10-08 20:26:33
テーマ:ブログ
横川に戻り、出雲路を進んでみる。瀧が鼻岩嶽を街道は右に折れ進む。街道両脇には田園風景が続く。このあたりは、かって、三入荘(みいりのしょう)と呼ばれた。
最初は石清水八幡宮寺領であり、新熊野(いまくまの)社領となる。武蔵国熊谷郷を本貫地とする熊谷直国は承久の乱(1221)において京都に攻め上る途中に瀬田で戦死したがその恩賞により子の直時が三入荘地頭に任じられ、安芸熊谷氏の祖となった。
街道筋に熊谷氏の史跡を見ることができる。
菩提所観音寺跡に巨石の石垣を見る。この前を街道は続く。かっての旅人もこの巨石を眺め、進んだのだろう。
現在、史跡内には、観音堂と五輪塔、宝篋印塔が立つ、墓所がある。
観音堂内には本尊の如意輪観音坐像と熊谷氏の紋が刻まれた室町時代の須弥壇があるのだが、見ることが叶わなかった。
熊谷氏は慶長10年(1600)、毛利氏に従い、萩に移り、観音寺は廃寺になるのだが、熊谷氏は以降も、使者を送り墓参を続けたが、寺、墓の管理は十分、なされないまま、荒れ果てていった。
この菩提所から、高松山を眺めてみる。高松山の麓には熊谷氏の住居跡、土居屋敷がある。土居屋敷は熊谷高直によって、居城である三入高松城の麓に建てられた館だ。その頃、熊谷氏は毛利配下にあり、安芸国には毛利氏により、安定した状態にあったので、生活の便を考え、麓に居宅を移したのである。ただ、屋敷跡は石垣がめぐらされていることから、城としての機能も有していたのだろう。
土居屋敷跡付近には案内板がない。福留ハムの駐車場に隣接している。根の谷川を渡り、福留ハムの横の変電所を左に入ると石垣が見える。案内板によると、このあたりは熊谷氏子孫の土地で子孫の好意でL字型の石垣だけが残されている・・・・。案内板の文章に疑問を覚えた。
安芸熊谷氏の史跡は広島の財産だぜ。
このあたりは、かってこのあたりを治めていた土豪土居氏から、土居という地名で呼ばれていた。
高松山の麓を歩いてみた。武士の墓と呼ばれている自然石の墓石が並んでいた。山の中の石垣で囲まれた道に室町時代の面影を見た。
街道に戻る。
菩提寺観音寺跡から出雲路は往時の面影を残しながら北へと続く。
出雲路は現国道54号線と並行し、時には同化し、北へ進む。僕の雲石街道の旅は今回でひとまず終了しよう。広島にはまだ、魅力的な街道が存在する。次は西国街道を東に歩いてみようと思っている。
.
明見宮~岡山市北区三野本町
2013-10-07 21:00:12
テーマ:ブログ
岡山理科大学の車両通用口である東門の近くに小さな祠がある。気になっていたので、先日、お参りしてきた。
石灯籠には『明見宮』と刻まれていた。由緒はわからないし、探る手がかりもない。ただ、この場所から、旭川方向を眺めると、妙見山が見える。妙見山には天神社が祀られている。天神社はかって、明見宮と言った。明治2年に天津神社に改号され、その後、天神社になったのだ。
この神社は天神社の境外社なのだろう。
三野(みの)という地名はスサノオがこの地を訪れた時、雨が上がったので、着ていた蓑(みの)を脱ぎ捨てたことに由来するという伝承がある。かっては御野といい、日本書紀にもその名が見える。
中世の山陽道は旭川に面した妙見山の対岸を進んだ。対岸の今在家から妙見山の麓までの渡しがあった。この渡しは「鑵子の釣の渡し」と呼ばれた。鑵子(かんす)とは茶の湯で使う茶釜のことだ。そのツルの形に湾曲した地形が似ている。
渡し場には身投げ岩と言われる岩場がある。下が、深い淵になっており、身投げをするものがいたためだ。
藩政時代、旭川の自然堤防の往来が整備されており、池田光政は『三野のご涼所』を作って、納涼の宴を催していた。
妙見山には永禄年間(1558~1570)には明見山城があった。須々木四郎兵衛の居城だったが、
三村家親により滅ぼされ、その後、明禅寺合戦で三村氏を滅ぼした宇喜多直家により、城は召し上げられた。
明見宮はこの城跡に建てられた。明見と妙見は同意であり、妙見菩薩信仰と地名は通じるものがある。妙見菩薩は北極星を神格化したもので、毘沙門天同様、武士の信仰を集めた。この地の明見宮勧請と妙見菩薩信仰は同一のものだと思うのだ。
祠の中を除いた。仏像が転がっていた。阿弥陀仏のようで、妙見菩薩ではないようだが、祠の中にある仏像から、この地に明見宮が祀られた必然を想像してみた。
いいね!
今村宮~岡山市北区今
2013-10-06 15:00:18
テーマ:ブログ
岡山には宇喜多氏縁の史跡が多い。今村社は県社である。近代社格制度はGHQにより、廃止されたが、各神社は社格を誇りに思い、堂々と名乗っている神社が多い。氏子地域は旧岡山市の半分に渡る。
$大根役者
由緒には『建武元年(1334)の創建で、旧岡山市の中心部である内山下の榎の馬場(現在の岡山県庁前)に、奥州白川の城主である菖蒲七郎左衛門の子・正寿が勧請した。
岡山市の西部にあり、備前国と備中国の境に立つ吉備の中山の北東麓に東面して鎮座する。吉備の中山は古来より神体山として信仰されており、北西麓に備中国一宮・吉備津神社が鎮座している。吉備の中山には多くの古墳や古代祭祀遺跡が残っており、古くから神体山の信仰がなされていたと考えられる。太陽、月、盤座、巨木が信仰対象になっている。吉備津神社同様、大吉備津彦命を主祭神に祀り、命の関係一族を配祀している。
大化改新を経て吉備国が備前・備中・備後に分割されたのちに備前国一宮として崇敬され、中世以後は、宇喜多氏、小早川秀秋、池田氏など歴代領主の崇敬を受けた。
戦国時代に、日蓮宗を信奉する金川城主・松田元成による焼き討ちに遭い社殿を焼失した。松田氏滅亡後、宇喜多直家が崇敬し、高松城水攻めの際には羽柴秀吉も武運を祈願したと伝えられている。
藩政時代に岡山城主の池田利隆が本社を造営した。利隆は光政の誕生を期に子安神社を造築した。その後、岡山藩主池田忠雄により本社・拝殿が造営された。池田綱政が社領300石を寄進したほか本殿を造営し、本殿・渡殿・釣殿・祭文殿・拝殿と連なった社殿が完成した。元禄10年(1697)に完成したと社伝にある。
近代社格制度においては県社に列し、昭和3年(1928)に国幣小社に昇格した。
昭和5年(1930)12月、失火により本殿と随神門以外の社殿・回廊を焼失した。現在の社殿は昭和11年(1936)に飛鳥時代の社殿建築の粋を集めて再建されたもので、将来の国宝と言われている。
元禄10年(1697年)池田綱政公が造営した髄神門。
高さ11.5m、笠石8畳の日本一大きな石燈籠だ。文政13年(1830)から安政4年(1857)の27年にも渡り寄付がよせられ、安政6年(1859)に天下泰平を祈願して建立された。6段づくりの石段には1670余名の奉納者名が刻まれている。
拝殿まで進む。
本殿は寛文8年(1668)岡山藩主、池田光政公が造営に着手しその子、綱政公の元禄10年(1697)に完成した。三間社流作りの神殿は飛鳥時代社殿建築の粋がつくされており荘厳華麗にして吉備国の神社建築が伝統とする“流れ造り”の正統な姿を示す社殿としても貴重な建築物とされている。古代の熱田神宮の社殿配置にならい、本殿、渡殿、祭文殿、拝殿と大社殿が一直線に配置されている。
社殿は、夏至の日に正面鳥居から日が差し込んで祭文殿の鏡に当たる造りになっていることから「朝日の宮」と呼ばれている。夏至の日に来てみようかな。
摂末社は26社を数える。亀島神社に古代祭祀遺跡とされる環状列石が残っている。
吉備津彦は桃太郎であるとされている。吉備津神社が鬼(温羅)と闘った場所とされている。この地は住居跡なので、おじいさんとおばあさんが桃を見つけた伝承は吉備津彦神社に残っている。鳥居前の小川が桃が流れてきた川だ。
今度、来るときには桃を持って来よう。京都丸善に檸檬を置くように、この川に桃を流して、新たな文化を作りたい。
.
吉備津神社~岡山市北区吉備津
2013-10-12 08:38:33
テーマ:ブログ
久しぶりに吉備津神社を訪ねた。祭神は第7代孝霊天皇の皇子の「大吉備津彦命」だ。吉備津彦命は四道将軍(よつのみちのいくさのきみ)の一人だ。当時、吉備の国は出雲より飛来した温羅(うら)が力により支配し、悪政を布いていた。都まで上り、窮状を訴えた吉備の人の願いを聞き、第10代崇神天皇は吉備津彦命を派遣した。吉備津彦命は今の吉備津神社に本陣を構え、温羅と対峙した。
吉備津彦命は温羅に対して矢を1本ずつ射たが岩に呑み込まれた。そこで命は2本同時に射て温羅の左眼を射抜いた。温羅が雉に化けて逃げたので命は鷹に化けて追った。更に温羅は鯉に身を変えて逃げたので吉備津彦は鵜に変化してついに温羅を捕らえた。
討たれた温羅の首は討たれてなお生気があり、時折目を見開いてはうなり声を上げた。気味悪く思った人々は吉備津彦に相談し、吉備津彦は犬に首を食わせて骨とするが、うなり声静まらず、釜の底へ骨を埋めても地中より温羅のうなり声は響き続けた。ある夜、吉備津彦の夢の中に温羅が現れ、『自らの妻阿曽媛を巫女として釜を用いる神事を行うならば静まり、自ら吉凶を告げよう』と告げた。お告げ通り、神事を執り行ったところうなり声は鎮まり、吉凶を占う存在となった。吉備津彦命はその後もこの地に留まり、吉備国の人々に殖産を教え、仁政を行った。
温羅は出雲から、製鉄技術を伝え、この国を治めた豪族なのだろう。古代出雲王国とつながり、ヤマト王権に対抗する勢力を有していたため、ヤマトにより滅ぼされたということをこの伝承は伝えているのだろう。
吉備津彦命の家来の犬飼健を犬、楽々森彦を猿、留玉臣を雉とし、温羅を鬼として、お伽話「桃太郎」が生まれたとされている。犬飼健は犬養氏の始祖であり、犬養毅首相の祖先であると言われている。
吉備津神社は仁徳天皇が行幸したときに創建されたと伝えられている。当初は三備(備前、備中、備後)の一の宮であったが、三国分割により、備中一の宮となった。分霊が備前、備後の一の宮に祀られている。産業の守り神、長寿の守り神として信仰されている。式内社(名神大社)であり、旧社格は官幣中社で、現在は神社本庁の別表神社とされ、特別な権限が与えられている。
足利義満造営とされる比翼入母屋造の本殿は、「吉備津造」と言われ、拝殿とともに国宝指定されている。
回廊は天正7年(1579)再建され、全長360mにもおよび自然の地形そのままに一直線に建てられている。岡山県指定重要文化財だ。
北随神門には犬飼健命、楽々森彦命、留玉臣命が祀られている。
南端の本宮社は吉備津彦命の父母神が祀られており、安産・育児の神様として信仰されている。
おっぱい絵馬が奉納されている。
回廊の途中に神馬殿がある。
南門からも本殿への回廊が続く。
お釜殿では鳴釜神事が行われる。
摂末社は三社宮 (春日宮、大神宮、八幡宮)岩山宮 、滝祭神社、えびす社、祖霊社、一童社
宇賀神社 (神池の島に鎮座)が祀られている。
吉備津神社を訪ねてみると、古代吉備王国の壮大さがわかる。吉備津彦はその後、この地を長く支配した吉備氏の祖だ。ヤマトがおそらく渡来人である温羅一族を排除した歴史に今の大陸と日本の関係を思うのだ。排除もしくは同化の歴史を共有の歴史に転化していくことができなかった日本が残念でならない。
.
忘れ去られた神社『大神社』~広島市東区二葉の里
2013-10-08 23:09:17
テーマ:ブログ
広島市の歴史は二葉山から始まった。『二葉の里歴史の散歩道』整備、広報活動の予算を計上していることを僕は英断として評価する。1945.8.6以前に行政が目を向ける意思表示をしているとして評価する。
ただ、この散歩道に欠かせない神社が欠如していることを僕は指摘したい。広島県神社庁が神社誌に掲載している重要な神社はこの散歩道のコースには入っていない。
大神社は東照宮に隣接した神社で、二葉山で一番古い神社なのだ。この神社抜きに輝元の広島城下建設もあり得なかった。地主神社なのだ。
元は黒髪山地主大明神と号した。二葉山の名前は元々は尾長山といったがその前は黒髪山と言った。この由来は興味深い。二葉山の下まで往時は海だった。その海に黒い大蛇が出没していた。その大蛇は頭は海中にあり、尾は山にとぐろを巻いていた。尾長の地名はそこから来ている。この大蛇は海上で難破している船の船員を救助した。人々はこの大蛇を黒神として祀り、神殿を建立した。黒神が現れるとき、あたりは霞に覆われた。この山の別名を霞山ということもある。
平清盛が音戸の瀬戸を開くときに黒神の霊験がり、久寿年間(1154~56)に神殿を再建し、黒神を地主尾長大神と号し、神田も献上したと記録にある。承久年間(1119~22)には安芸守護武田信光が本殿を再建し、文和年間(1352~6)に武田氏は峯姫神社の天照大御神と宇迦之御魂神を合祀し、天神宮と併せ、銀山城の守護神として、家臣串家に祀らせた。
武田氏の滅亡後、毛利元就は大神社、天神宮の神主を渡辺家に命じ、天正年間(1573~92)には毛利輝元は社領を寄進している。慶安元年(1648)浅野光晟が東照宮を造営した際には相殿とされたが明治2年には分社し、東照宮の西に境内地が設けられた。
由緒も明確な歴史のある神社だ。
にもかかわらず、その現状は
参道入り口にはチェーンが張ってある。
急坂を進むと標柱、手水が見えてくる。雑草に覆われている。参拝客が訪れていないことがうかがえる。
灯籠、一間造りの本殿が見える。原爆で社殿等すべてを焼失したのだが、本殿だけは再興されたのだろう。本殿前に雑草に覆われた石畳の参道が確認できる。
大神社は先述したように、尾長天満宮の渡辺家が管理しているはずだ。明確な由緒が残り、昭和の終わりには再建計画もあった。何故、荒れ果てたままにしているのだろうか。今度、機会があったら、渡辺さんに聞いてみよう。
広島市もこの由緒ある神社に光を当てるべきだ。
参道を歩くときに気になった場所があった。建物の後だ。被爆時に第二総軍司令官は畑元帥だった。官邸は東照宮の西隣にあった元英国大使 松木勝太郎の別荘だった。広島の第一報は畑の命令で無傷であった馬木の送信所から中央に送られた。
、被爆時の第二総軍の官邸は歴史遺産だと思うのだが、広島市は第五師団、第二総軍の史跡を史跡と認めたくはないようだ。
閑話休題、大神社の再建に関しては、周りの人から興味深い話しも聞いた。この場所で自殺をした人がいたそうで、それ以来、人が近づかないようだ。だけど、お祓いをして、供養して、神社の再建を実現できれば死者も浮かばれる。
大神社の再建を祈っている。神社の祭礼日は10月9日だ。渡辺宮司は明日、お参りをするのだろうか?
.
13-10-08 20:26:33
テーマ:ブログ
横川に戻り、出雲路を進んでみる。瀧が鼻岩嶽を街道は右に折れ進む。街道両脇には田園風景が続く。このあたりは、かって、三入荘(みいりのしょう)と呼ばれた。
最初は石清水八幡宮寺領であり、新熊野(いまくまの)社領となる。武蔵国熊谷郷を本貫地とする熊谷直国は承久の乱(1221)において京都に攻め上る途中に瀬田で戦死したがその恩賞により子の直時が三入荘地頭に任じられ、安芸熊谷氏の祖となった。
街道筋に熊谷氏の史跡を見ることができる。
菩提所観音寺跡に巨石の石垣を見る。この前を街道は続く。かっての旅人もこの巨石を眺め、進んだのだろう。
現在、史跡内には、観音堂と五輪塔、宝篋印塔が立つ、墓所がある。
観音堂内には本尊の如意輪観音坐像と熊谷氏の紋が刻まれた室町時代の須弥壇があるのだが、見ることが叶わなかった。
熊谷氏は慶長10年(1600)、毛利氏に従い、萩に移り、観音寺は廃寺になるのだが、熊谷氏は以降も、使者を送り墓参を続けたが、寺、墓の管理は十分、なされないまま、荒れ果てていった。
この菩提所から、高松山を眺めてみる。高松山の麓には熊谷氏の住居跡、土居屋敷がある。土居屋敷は熊谷高直によって、居城である三入高松城の麓に建てられた館だ。その頃、熊谷氏は毛利配下にあり、安芸国には毛利氏により、安定した状態にあったので、生活の便を考え、麓に居宅を移したのである。ただ、屋敷跡は石垣がめぐらされていることから、城としての機能も有していたのだろう。
土居屋敷跡付近には案内板がない。福留ハムの駐車場に隣接している。根の谷川を渡り、福留ハムの横の変電所を左に入ると石垣が見える。案内板によると、このあたりは熊谷氏子孫の土地で子孫の好意でL字型の石垣だけが残されている・・・・。案内板の文章に疑問を覚えた。
安芸熊谷氏の史跡は広島の財産だぜ。
このあたりは、かってこのあたりを治めていた土豪土居氏から、土居という地名で呼ばれていた。
高松山の麓を歩いてみた。武士の墓と呼ばれている自然石の墓石が並んでいた。山の中の石垣で囲まれた道に室町時代の面影を見た。
街道に戻る。
菩提寺観音寺跡から出雲路は往時の面影を残しながら北へと続く。
出雲路は現国道54号線と並行し、時には同化し、北へ進む。僕の雲石街道の旅は今回でひとまず終了しよう。広島にはまだ、魅力的な街道が存在する。次は西国街道を東に歩いてみようと思っている。
.
明見宮~岡山市北区三野本町
2013-10-07 21:00:12
テーマ:ブログ
岡山理科大学の車両通用口である東門の近くに小さな祠がある。気になっていたので、先日、お参りしてきた。
石灯籠には『明見宮』と刻まれていた。由緒はわからないし、探る手がかりもない。ただ、この場所から、旭川方向を眺めると、妙見山が見える。妙見山には天神社が祀られている。天神社はかって、明見宮と言った。明治2年に天津神社に改号され、その後、天神社になったのだ。
この神社は天神社の境外社なのだろう。
三野(みの)という地名はスサノオがこの地を訪れた時、雨が上がったので、着ていた蓑(みの)を脱ぎ捨てたことに由来するという伝承がある。かっては御野といい、日本書紀にもその名が見える。
中世の山陽道は旭川に面した妙見山の対岸を進んだ。対岸の今在家から妙見山の麓までの渡しがあった。この渡しは「鑵子の釣の渡し」と呼ばれた。鑵子(かんす)とは茶の湯で使う茶釜のことだ。そのツルの形に湾曲した地形が似ている。
渡し場には身投げ岩と言われる岩場がある。下が、深い淵になっており、身投げをするものがいたためだ。
藩政時代、旭川の自然堤防の往来が整備されており、池田光政は『三野のご涼所』を作って、納涼の宴を催していた。
妙見山には永禄年間(1558~1570)には明見山城があった。須々木四郎兵衛の居城だったが、
三村家親により滅ぼされ、その後、明禅寺合戦で三村氏を滅ぼした宇喜多直家により、城は召し上げられた。
明見宮はこの城跡に建てられた。明見と妙見は同意であり、妙見菩薩信仰と地名は通じるものがある。妙見菩薩は北極星を神格化したもので、毘沙門天同様、武士の信仰を集めた。この地の明見宮勧請と妙見菩薩信仰は同一のものだと思うのだ。
祠の中を除いた。仏像が転がっていた。阿弥陀仏のようで、妙見菩薩ではないようだが、祠の中にある仏像から、この地に明見宮が祀られた必然を想像してみた。
いいね!
今村宮~岡山市北区今
2013-10-06 15:00:18
テーマ:ブログ
岡山には宇喜多氏縁の史跡が多い。今村社は県社である。近代社格制度はGHQにより、廃止されたが、各神社は社格を誇りに思い、堂々と名乗っている神社が多い。氏子地域は旧岡山市の半分に渡る。
$大根役者
由緒には『建武元年(1334)の創建で、旧岡山市の中心部である内山下の榎の馬場(現在の岡山県庁前)に、奥州白川の城主である菖蒲七郎左衛門の子・正寿が勧請した。
PR